日本基督教団名張教会
「世の終わりまで共に」 2025年5月4日 マタイによる福音書 28章 16節から20節 イエス様のもとに集められたのは、かつてイエス様を裏切り逃げ出してしまった11人の弟子たち。彼らは皆、婦人たちの喜びの知らせを聞き、ガリラヤの山で落ち合うことになりました。彼らはイエス様が集められるまではバラバラでした。逃げている者、隠れている者、また、別の生き方を模索しようとしている者もいたかもしれません。しかし、彼らの所に、イエス様の復活の知らせが届きます。バラバラであった者たちが再びイエス様の約束のもと集まってきました。ここに、イエス様の、「天と地の一切の権能を授かっている」方の力があります。普通に頭で考えたら、死者の復活などあり得ないと思うでしょう。しかし、弟子たちは、ある者は驚きつつ、またある者は疑いつつも、イエス様の約束によって、再び集められました。しかし、彼らには欠けがあります。弟子の一人、ユダはイエス様を売り渡した後、自らの命を絶ってしまったからです。また、集められた者たちの中にも疑う者たちがいたことがはっきりと書かれています。 イエス様に出会い、ひれ伏しているその時でさえ、復活したイエス様に出会ったなど信じられない者。彼の耳には「弟子の誰かがイエスの死体を盗み出した」という噂が耳に入っていたことでしょう。目の前にいるイエス様は偽物かもしれない。私たちはこの弟子の姿に驚きます。しかし、彼の姿を通して人間とはこういう者なのだなと教えられます。きっと、私たちもイエス様にお会いすることができたとしても、本当にあの復活したイエス様なのか疑いの目を持って、来られた方を見ることでしょう。疑いつつも礼拝する者がいる。疑いを持ったままで礼拝してもよいことを神様が教えてくださっています。神様を礼拝するときには、神様だけに目を向けて、疑ってはいけないと考える人もいるかもしれません。しかし、神様が与えられたこの頭、理性を使って疑うことも、神様は許してくださる。疑いを持った者たちをも神様は呼び集めてくださる。私はこう思います。同じようにイエス様が復活したことを疑う者たちがこの地に大勢います。きっと、イエス様の復活に疑いを持っている弟子は、彼らの気持ちが理解できたでしょう。それは彼が宣教に使わされたとき、彼らを弟子にするための賜物となります。神様は疑いももちつつ欠けもある弟子たちを、この世へと使わされました。 「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」。このイエス様の言葉には大いに力を受け、励まされます。私たちをこの世へ遣わし、伝道へと召し出してくださるイエス様は、「天と地の一切の権能を授かっている」方です。だから私たちはこの世へと出て行って、すべてを民を弟子へと招くことができる。それは私たち自身の力や賜物の力によるものではありません。私たちに力を与えてくださり、賜物を授けてくださる方が、この世のすべてを御心のままにできる力を持っているからです。 自分がクリスチャンであることを堂々と人に言うことができる方はいるでしょうか。私は牧師でありながら、自分自身が牧師であると堂々と人に言うことが難しいと感じるときがあります。しかし、私を、私たちをこの世に遣わそうとしてくださる方がなんとおっしゃってくださったのか。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」。この「だから」という言葉にも力を受けます。イエス様にとって、私たちキリスト者がすべての民を弟子にできることが当たり前のように語られているからです。すべてを御心のままにできる方の力によって、クリスチャンはこの世へと伝道の旅へ遣わされていきます。私たちは教会になかなか人が来ないことに気落ちします。何か催し物を計画しても、集まる目的が違うからなかなか教会につながらないという声も耳にします。それらに私たちは一喜一憂します。しかし、イエス様にとってご自分の御言葉を伝える道に失敗などないのだと気づかされます。私たちの目から見たら失敗かもしれないけれども、イエス様はそれを失敗とは見ておられない。むしろ私たちが勝手に判断しない方が良いのでしょう。ご自分の御心のままにおできになる方が、わたしたちにその力と賜物とを授けてくださる。私たちはイエス様からの励ましと、力を受けて、これからこの世へと旅に行こうとしています。 この世へと遣わされようとするひとりひとりが味わうべきことは、イエス様の近さでしょう。これから聖餐に与ります。私たちの内にキリストが生きておられることを思い起こすために。世の終わりまで共にいてくださる方が、私たちの内に生きていてくださる。この言葉を、そのまま受け入れて、イエス様と共に旅をしていきます。疑う者たちにもイエス様は共にいてくださる。そしてその道中において、ご自分がその人の内におられることを教え、導き、養ってくださる。天の父なる神様と祈り、私たちには遠く及ばない天におられる方、その右に座しておられるイエス様に目を向けるのは大切なことです。しかし、「天の父なる神様」と祈るとき、イエス様は私たちの隣で祈りを聞いてくださっています。 「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」このイエス様の言葉に背中を押され、私たちは外へと駆けだしていきます。すべてをご自分の御心のままに用いることができる方が、これから出会う人々をご自分の弟子にしようと私たちを外へと押し出してくださっているからです。イエス様は弟子のうちに欠けがあっても疑いがあっても、そのままに彼らを旅へと遣わされました。イエス様が彼らと共に最後までいてくださるからです。 私は友人と、それぞれの福音書を映画にするならどんなラストになるだろうかと話したことがありました。マタイによる福音書を一本の映画にするなら、きっと最後はイエス様の御言葉が語られたあとドンとタイトルが出るでしょう。そしてスタッフロールのところでは上からの画面で、11人の弟子の後に大勢のキリスト者たちが野原を駆けだして行っているところを想像しました。スタッフロールが終わりそうになってくると、画面が上からだんだん下に行って弟子の一人として私たちも走っていて、そしてその隣にイエス様も一緒に走っていてくださっている。そんな場面を想像しました。 私たちはイエス様から授けられた信仰のバトンを、まだイエス様を知らない者たちに、しかし、イエス様の民である者たちに手渡していきます。イエス様が共に走ってくださるのだから、堂々と胸を張って、この旅路を走っていきましょう。「私はクリスチャンです」。その言葉は、自らの信仰を人に表明する以上の言葉です。その言葉は、「私にはイエス様が共にいてくださる」と人々に伝える言葉だからです。
「神のまなざし」 2025年5月11日 創世記 1章24節から2章3節 今日は教会学校の教案に沿って、旧約聖書の創世記の御言葉を味わいます。こどもたちにはお話の中で、神様がこの世界をお造りになったとき、それぞれの名を呼んでくださったことを話しました。クラス替えをした時の学校の初めて出席を取るときのように。「あつもりともきくん」と先生に呼ばれたら、元気よく手を挙げて「はい!」と返事をします。そのとき、先生は初めて顔を合わせた大勢の子供たちの中から、ようやく「あつもりともきくんはこんな顔をしている子なのか、こんな性格の子なのか」とわかります。初めてのクラスで不安だった僕も、名前を呼ばれると、ああ、このクラスにいていいんだと安心します。天には天の、地には地の、海には海の、それぞれの名を呼び居場所を与えられました。そして神様は造られた一つ一つを見て、良しと言ってくださいました。 神様は造られた空と大地に生き物を造られました。人間の歴史の中で多くの生き物が発見されてきましたが、それでもまだまだ把握し切れないほどの、たくさんの動物を造られました。神様が生き物を造られた創造の業の最後に、人間を造られました。ご自分に似せて、ご自分にかたどって、人を造られました。 神様に似せて造られた人間。神様の中の父、子、聖霊が互いに関係を持つことができるのと同じように、私たち人間も互いに関係を作ることのできる存在として作られました。そして何よりも人間は神様と関係を持つことが望まれている存在です。私たちは神様から「極めて良い」と言われた被造物のうちの一つです。「最高傑作だ」と言われ、神様に「ここにいていいよ」と言われた者たちです。たとえ友達、家族、他人が、私たち一人一人を認めなかったとしても、お前はここにいちゃいけないやつだと言ったとしても、あなたを作った神はここにいていいんだよと言ってくださっている。こんなに嬉しいことはないと思います。 温かい言葉を与えてくださった神様は、七日目にこの世界を完成され、安息されました。神様が腕枕をして横になり、完成された最高傑作に囲まれて過ごす安息の日。その七日目の日曜に、私たち被造物である人間は、神様のもとに集って賛美を捧げます。名前を呼んでくださってありがとう、ここにいて良いと言ってくださってありがとう、その気持ちを込め賛美を捧げます。 しかし、今の世界を見渡すと、極めて良い姿とはかけ離れた人間が、神様の造られた世界を壊している姿を目にします。それ故に創造の物語は「昔は良かったのに今となっては」と、今の世界に目を向けると希望の言葉として受け取ることは難しいと思います。それでも、神様は私たちを本来は良いもの、最高傑作として造られました。神様のまなざしは、私たちをご自分の子として見ておられます。イエス様がご自分を神様に捧げられたとき、イエス様が十字架の上で死なれたとき、私たちはイエス様の血によって神の子とされました。私たちは神様から聖なる民となるように特別に選ばれています。次週はテサロニケの信徒への手紙に入りますが、その手紙の中で、パウロはこのように言っていました。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」一テサ4:3。罪人であったとしても、神様は私たちに聖なる民になることを望んでくださっている。そして神様は私たちを聖なる民に日々新しく変えてくださる。私たちは自分自身を変わらないと思うかもしれません。しかし、神様はご自分の御心のままにキリストに似たものへと私たちを日々新たにしてくださる。世の終わりまで私たちには共に生きておられるキリストが側にいて、ご自分に似たものへと変えさせてくださる。一人一人の名を呼び、命を与えるだけでなく、最期まで導いてくださる方です。私たちはこの世にあって人間の、また私たち自身の醜い罪の面を見るとしても、そこに絶望せずに、神様を見上げる 希望が与えられています。神様は私たちに「あなたはわたしの聖なる民だ。宝の民だ」とおっしゃって見ておられる。 六日の歩みの中で、私たちがこの世界の罪を目にするとしても、せめて、神様が極めて良い、最高傑作だと言って安息なさった七日目の日曜日は、私たちは神様の被造物として、共に神様に信頼し、神様が変えてくださる自分に信頼したい。神様は今日も私たち一人一人の名を呼び、生きる物としてくださいました。そして安息の日曜日に、私たちを愛する子と呼び、再びこの世へと送り出してくださいます。そうだ、私たちは神の子だ。私たちを神の子としてくださった、復活のイエス様に感謝し、聖霊によって歩き出していきましょう。世の終わりまで。
「ユダヤ人の王」 2025年4月13日 ヨハネによる福音書 19章 16節後半から27節 イエス様は十字架につけられるためにゴルゴダという場所へひいていかれます。そしてイエス様の両側に他の二人も十字架につけられました。「二人、または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」とおっしゃったイエス様が、二人の罪人の真ん中におられます。私はここに教会の姿があると思いました。イエス様が真ん中にいてくださる時、私たち一人一人もイエス様と共に十字架につけられた罪人であることを教えられました。「私たちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます」ローマ6章8節。という御言葉の通り、教会の群れであるキリスト者たちは、洗礼を受けるときに一度死を迎えます。罪人である自分が一度死んで、そしてイエス・キリストから新しい命を、永遠の命をいただいて生きることになる。私たちが今生きているのは、イエス様から命をいただいているからです。それ故に私たちは、王である方の僕となって生きています。このお方がおられなければ、私たちの今は存在しないからです。 そしてイエス様の十字架には不思議な罪状書きが記されていました。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」これは本当に罪状なのでしょうか。祭司長たちが申し出たように、自分を王であると自称したと書いた方が、より罪の重さが伝わってきます。ピラトを始め、ローマの支配に抗い、自分を王であると自称して民をだまし、国家を転覆させようとしたと。しかし、ピラトは、そのままにしておけと命じます。ここに神様の不思議な業が働いています。ピラトはイエス様がユダヤ人の王であることを、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かせました。私たちは様々な言語で書かれている札を日常生活で目にしています。特に駅が多いでしょう。駅名の案内板や路線図に目を向けると、一つの駅名が日本語の他に、英語や韓国語、中国語で書かれています。それは他の国から来た人が見ても、あ、ここは名張駅だと一目でわかるようになるためです。 イエス様の罪状書きもまた三つの言語で書かれました。これはその地域に住む者だけでなく、当時の世界であったローマの人が見たら誰でもわかるように、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれました。神様はピラトを通してさえも、イエス様がユダヤ人の王であることをこの世界に告げ知らせたのです。ポンテオピラトのもとに苦しみを受け。私は幼い頃この使徒信条の言葉を口に出すと、いつもピラトのことをイエス様の敵、悪いやつだ、こんなやつは許してはいけないと思っていました。しかし、神様は人をまったく違った仕方でご覧になってくださっています。神様のまなざしはイエス様のお姿を通して知ることができます。ヨハネによる福音書に次の言葉がありました。2章23節からです。「イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられた」。この言葉にドキッとします。決して人には見せない、自分の心の内を、イエス様に見透かされているからです。イエス様は罪人の真ん中で十字架につけられています。そして一人の罪人であるピラトによって、ユダヤ人の王として裁かれました。ピラトだけが悪いのではないんだ。ピラトのことを許せん、こんなやつは滅びてしまえと思っている私も罪人です。神様のまなざしは私たち一人一人を罪人であるとご覧になっています。自分で何をしているのか全くわかっていないのに、私たちを導いてくださる神様をいらないと捨て去っている罪人でした。しかし、神様はもう一つのまなざしを持っておられます。それは御子をお与えになるほどに世を愛し、私たちを愛する子としてご覧になってくださるまなざしです。私たちを愛してくださっているからこそ、放っておくことはできない。名張教会の近くちょうど裏手に面した丘の上に小さな公園があります。そこには子供から大人までいろいろな年代の人が集まっています。中には歩き始めたばかりの子を連れたお父さんやお母さんの姿もあります。私が見たときには双子連れのお母さんの姿がありました。本当に子育ては大変だなと思います。一人を見ているともう一人がどこかへ行こうとしてしまう。その子を連れ戻しているうちに、今度はさっき見ていた子がどこかへ行こうとしてしまう。そのお母さんの姿を見て、私たちも神様から見ると幼子なのだなと教えられました。神様は好き勝手に行こうとしている私たちを必死に連れ戻してくださっているのだと。 幼子である人間たちはそれぞれ自分の好き勝手に生きようとします。イエス様が十字架につけられた場面でもそれは変わることがありませんでした。神の子が十字架につけられている近くで、兵士たちがイエス様の服をくじで分け合っています。兵士たちをも愛してくださっている方の姿に目を向けず、目の前の衣を分け合う姿を、おぞましく感じます。痛みと苦しみの中にある親を放っておいて、こどもたちが一つのおもちゃを引っ張って取り合っているような恐ろしさです。これもまた、罪人である人の姿です。 しかし、また罪人である人のもう一つの姿も示されています。神の子どもたちである姿です。ヨハネによる福音書は、イエス様の十字架のすぐ近くにいる女性たちの姿、そして一人の弟子の姿がとても印象的です。他の福音書では、弟子は全員イエス様が捕まったときに逃げ出して、誰一人十字架を見ていませんでした。また、女性たちは遠くからイエス様の十字架を見守ることしかできませんでした。しかし今日の場面では、婦人たちとイエス様の愛している一人の弟子がイエス様の十字架のすくそばまで近寄り、言葉も交わしています。ご自分の母マリアには愛する弟子を子どもとして見るように、また、愛する弟子にはマリアを母として見るようにと言われました。イエス様の十字架のすぐ下で新たなつながりが生まれています。ここに神の家族がつくられました。教会に集うキリスト者たちは、イエス様の十字架によって神の家族とされています。天の神様を父と呼び、また隣人を兄弟、姉妹と呼ぶ新たなつながりです。このつながりは、私たちが勝手に断ち切ることもやめることもできません。そして永遠にかわることがありません。死によっても断ち切られることはありません。なぜならイエス様が結んでくださったからです。地上に残された者たちと、神様の御もとにいる者たちとのつながりは、決してたたれず、同じ神様によってつながっています。 私たちの主が十字架へとつけられました。私たちを、この世を愛し、救われるためです。私たちはイースターの時、考えもしないような驚くべき出来事を目にします。その出来事を目にしたい方は、是非、来週も礼拝に足を運んでください。神様が待ってくださっています。しかし、今日の受難週が始まる時において、私たちはイースターでの復活を私たちは切に待ち望んでいます。共に神の家族として、イエス・キリストの復活を待ち望んでいます。私たちの目の前には、十字架につけられ、死んで葬られたイエス様の亡骸が残されているからです。主よ、おいでください。共に祈りを捧げましょう。
「主の復活、ハレルヤ」 2025年4月20日 マタイによる福音書 28章1節から10節 この喜ばしい日に神様が私たち一人一人を呼び集めてくださったことを神様に感謝いたします。私たちの主が復活された。万歳。ハレルヤ。私たちは声を合わせて賛美を捧げました。しかし、何がそんなに嬉しいのか、考えたくなります。嬉しいのだから深く考えなくても、喜びを感じていれば良いではないかと思います。けれども考えずにはおれない。なぜなら、私たちにとって死者が復活したことは、未だかつて無かったことだからです。そして、私たちはこの目で復活を見ていない故に、本当にあった出来事なのだろうかと考えずにはおれなくなります。 私が復活について思い巡らすとき、幼い日の家族の葬儀の時に自然と頭に浮かんできます。葬儀を終えたとき、私はイエス様のことをずるいと思っていました。勝手に一人で復活して天に昇っていってしまったと思っていたからです。しかし、今は、イエス様が私たち人にとって新しい命の初穂となってくださった喜びを受け止めることができています。イエス様が復活なさった時と同じように、終わりの日に私たちもまた復活するのだと。そのためにイエス様は人の体をもって、肉をもってこの地にお生まれになってくださったのです。 しかし、イースターの出来事を祝おうとするこのときにおいて、私たち自身の復活のことはひとまず脇に置いて、イエス様が復活なさったその出来事そのものを本当に心から喜びたいと願っています。なぜなら、墓を見に来た婦人たちも、やがて呼び集められる弟子たちも、復活したイエス様に出会った時、彼らは自分自身の復活があるからイエス様の復活を喜んでいた訳ではありませんでした。彼らが復活したイエス様にお会いすることができたことそのものをとても喜んでいたからです。 イエス様に会いにやってきた二人の婦人たちの姿がありました。二人のマリアは十字架の上で死なれたイエス様を見に、墓へとやってきます。彼女たちがイエス様の墓へやってくるのはこれで二回目です。イエス様が墓に納められるとき、墓に向かって座っていました。自分の愛する方の側に、少しでも近くにいたい。墓の前には大きな石が転がされ、封がされています。また、墓に納められた時とは異なり、入り口は番兵たちが見張っていました。それでも、せめて墓を閉じる石の前で再び座り込んでいたい。息を引き取られたイエス様の死を悼み、悲しみを捧げるために。 しかし、悲しみの場である墓において、神様はご自分の栄光を示されました。主の天使を天から送り、墓の前を固く閉ざしていた石を転がして、その上へと座らせました。この神様の御業によって、地は揺れ動き地震が引き起こされました。二人の婦人たちだけに起きた出来事ではありませんでした。地震によって地が揺れ動き、すべての国々が知ることになる大きな事件を神様は婦人たちに伝えようとしています。 神様がこの地にあらわれる時、人々の間に大きな恐れが襲います。このときも、墓を見張っていた番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになってしまいます。きっと婦人たちも神様に出会って、とても恐ろしかったでしょう。イエス様の死を悼みにやってきたのに、まさか自分たちが神様に出会うとは思ってもみなかったことだったと思います。しかし、主の天使は告げました。「恐れることはない」これから天使が告げようとするのは神様の恐ろしい言葉ではなく、大きな喜びの言葉でした。十字架につけられ死んだイエス様を探しにやってきた婦人たちに驚きの知らせが告げられます。 「十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。さあ、遺体のあった場所を見なさい。それから急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」あなたがたにこれを伝えます」。 そして婦人たちは恐れながらも急いで墓を立ち去り弟子のもとへと走って行きます。私は、マタイによる福音書の、イエス様の復活の箇所を読んでいると、この世界は神様の約束によって紡がれているのだなと深くかんじることがありました。天使は空の墓を見るようにと婦人たちに促しますが、彼女たちは天使の言葉を聞くと大喜びで駆けだしてしまって、空の墓を見ていません。他の福音書では婦人たちが空の墓を見ていると、側に主の天使がやってきていました。しかし、マタイによる福音書は、空っぽの墓よりも、天使の告げたイエス様の約束の言葉、「あの方は死者の中から復活された」という言葉の力強さが伝わってきます。イースターで大事なのは空っぽの墓があった出来事よりも、神様の約束の言葉です。イエス様が約束なさった通りに復活なさったこと、新しい約束が果たされたことです。婦人たちはこの新しい約束を携えて弟子たちのもとに喜んで走って行きます。 しかし、二人の内にはまだ拭えないほどの恐れもありました。イエス様は彼女たちの恐れを取り除くため、復活してから初めて二人の前にあらわれてくださいました。そして「おはよう」「よろこべ」と語ってくださいました。この言葉を聞くと、婦人たちはイエス様に近寄りその足を抱き、御前にひれ伏します。まだ、そこには恐れがありました。神様を畏れ敬う気持ちから、彼女たちはイエス様の体を両腕で抱きしめることもできず、足を抱き、御前にひれ伏すことしかできませんでした。これは人が神様を礼拝するときにふさわしい姿でしょう。しかし、イエス様は重ねておっしゃってくださいました。「恐れることはない」。イエス様を礼拝するとき、恐れよりも大きな喜びをもって迎えてほしいとイエス様がおっしゃってくださっています。そして改めて婦人たちに弟子たちに伝言を頼みました。「きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」 イースターがなぜ私たちにとって喜びとなるのか。それはイエス様が語られた最後の言葉にあります。ガリラヤで先に待っておられる。復活したイエス様とお会いできるから嬉しい。では、ガリラヤとはどこでしょうか。弟子たちにとってそこは、イエス様と伝道を共にした故郷でした。イエス様が共にいたことを味わえる思い出の場所。私たちは主の聖霊によって建てられた教会というガリラヤで、復活したイエス様にお会いできる。 復活したイエス様はこのガリラヤでどんな約束をしてくださるのか。賛美歌「聖なるかな」の中で歌いました。「昔いまし、今いまし、永久にいます主をたたえん」。私たちと共に生きておられる主がとこしえにいてくださる。世の終わりまで!
「どちらが命か」 2025年4月27日 マタイによる福音書 28章11節から15節 イエス様が復活した、喜ばしい知らせを受け取った婦人たちは、すぐに弟子たちのもとへと走って行きました。時を同じくして、何人かの番兵たちも都に行き、祭司長たちにことの次第を報告に行きました。婦人たちよりもはやく、イエス様の復活の知らせを報告した者たちです。「十字架につけられて死んだイエスの墓は空になっていた。墓に葬られたイエスが復活した!」神様は、墓を見張っていた番兵たちも伝道へと遣わします。しかし、その知らせを聞く者たちの耳は閉じられていました。祭司長たちは多額の金、賄賂を渡して、イエス様の復活の知らせを口封じしました。「「弟子たちが夜中にやってきて、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言いなさい」。兵士たちは金を受け取ると彼らの言うとおりに、嘘の噂を広めていきます。 婦人たちが墓へ来て、はじめに見たのは脇へ転がされている石の上に神様の使いが座っている姿でした。そして天使に促されてイエス様の墓が空であることを知ります。それから走って行き復活したイエス様のお姿を目にすることができました。復活について私たち人間の目に確かに残ること、私たちが考え得る限りであり得そうなことは、イエス様の墓が空っぽであったという事実でしょう。納められているはずの遺体がなくなっている。これを聞いた、祭司長たちは「弟子たちがイエスの墓から死体を盗んで行った」と考えました。もし、イエス様が復活したなどという噂が広まれば、人々がさらに祭司長たちの言うことを聞かなくなってしまう。それは困ると考え、墓の前に番兵まで用意した祭司長たちは、いざイエス様が復活した知らせを聞くと、今度は嘘の知らせを流しました。 いや、世間一般に見てみると、祭司長の広めていた噂の方が、あり得るのではないでしょうか。聖書は「弟子がイエスの遺体を盗み出した」という噂が、ユダヤ人の間に広まっているということを書き残しています。ユダヤ人の間にあって、礼拝を捧げているキリスト者たちは、きっとユダヤの人々から、「あいつらは、イエスという嘘の救い主を信じて神を礼拝している。本当は弟子たちがイエスの遺体を盗み出したのに、復活したなどといって、私たちを惑わそうとしている」、と冷ややかな目で見られていたでしょう。そしてこの冷めた視線が、当時のユダヤの人々の間では当然のこととして受け入れられ板と思います。キリスト教?おかしなことを信じている奴らか。行った行った。神様に召し出され、伝道へと駆けだしていったキリスト者たちは、迫害という形で拒絶されます。あなたたちの信じているイエスを救い主と認めるわけにはいかない、と時に暴力に訴えて、激しく傷つけられることもありました。 番兵がイエス様の復活を報告しに行った出来事はマタイによる福音書だけに残されています。マタイによる福音書が最初に書かれた教会は、この冷ややかな目に常にさらされている恐怖と戦わなければならないほど、ユダヤ人の社会と近くにあったのでしょう。礼拝に集まっている一人一人はいつも、自分の身のうちに一つの問いを携えていました。「自分はどちらの知らせを信じるのか。主イエスの復活か、それとも世間に広まっている噂か」。時に、礼拝に行くのをやめようと思うこともあったでしょう。しかし、礼拝に来て、今日の御言葉を読んだとき、ふっと心が軽くなるような、明るいユーモアも受け取っていたことでしょう。世間に広まっている噂が、実は作り話で、イエス様が復活したことが真実なんだ。どちらの知らせを信じるのかと考えることもバカバカしく思えてくるほど、まっすぐに、イエス様の復活の知らせが御言葉を聞く人々に届きます。そして神様は御言葉を聞く一人一人に夢を授けてくださいます。真の神が死を死に、死に打ち勝った、死を滅ぼしてくださったという夢。この夢が人に希望を抱かせてくれます。死はもはや人を支配しない。私たちはみんな神様のものだ!。そしてこの事実を、礼拝に来ている自分たちだけが知っている。神様はご自分の御子の復活の知らせを聞いた者たちを、礼拝の後この世界へと遣わしてくださいます。自分だけが受け取った、宝物のように大事な知らせを、この世へと伝えるために。 復活したイエス様に出会った婦人たちもまた、神様に押し出され、喜びに満たされて弟子たちの元へ到着します。「わたしたちの主イエスが復活なさった。先にガリラヤで待っておられる」。しかし、婦人たちが到着したときには既に、ユダヤ人の間に広まっている噂を弟子たちも耳にしていたことでしょう。17節にはイエス様に出会っている時ですら疑っている弟子たちもいたと書かれているからです。「本当にあの人はイエス様だろうか。本当はこの集まった者たちの誰かが、イエス様の遺体を盗んで、目の前にいるのはそっくりさんではないだろうか」。それでもイエス様は疑う弟子たちをも身許へと呼び集めてくださり、御言葉を世界中に広めようと、約束してくださいました。復活したイエス様が、世の終わりまで、私たちと共にいると。 私たちも、イエス様の復活を前にして、疑いを持っている一人一人です。私たちは復活を固く信じられるようになってからこの世へと出て行きたいと思います。しかし、神様は私たちを、その疑いを持ち続けたまま、この世へと遣わそうとしてくださっています。もし、復活を信じられない方は、イエス様のお姿に目を向けてみてください。共にいてくださるイエス様が、私たちの道中において、最後まで私たちを教え、導き、養ってくださいます。 私は神学校へ入ってからも、イエス様の復活を信じることに抵抗がありました。本当にあったのかなと迷いながら通っていました。しかし、神様は神学校での学びを通して、また、奉仕している教会での信仰生活を通して、養ってくださり、導いてくださいました。どうやって信じることができるようになったのかを聞かれると答えられないのですが、不思議なことに、今では確かにイエス様は復活したと信じることができるようになりました。私にそのように働きかけてくださったイエス様なのだから、迷っているあなたのことも、最後まで教え、導き、養ってくださる。このことは、はっきりとお伝えできることです。 私たちの主は復活され、今も、後もとこしえに天におられる方。主がおられないところなど、どこにもない。私たちは主に最後まで導かれて、命の道を歩ませていただいています。主に頼り、神様に向かって進んでいきましょう。